考えてみれば、私と世界とは、最初から、絶体的に無関係だった。
想い出せば想い出すほど、産まれてこの方、ずっとそうだった。
「個体とはそういうモノなのだなあ」
「それは宿命であり使命であろうよ」
人と世界との決定的な絶対分離は、自己識別・自己認識から始まった。
最初の、そして最大の、恐るべき悲劇である、自己識別・自己認識とは何か?
それは、産まれて間もない乳児の頃だったろうか。
全体性そのものとして躍っていた存在(=胎児から新生児)が、ある日突然に氣づく。
これとそれとは別だと。これとそれとは違うと。
それらを意識する自分が存在するのだと。
時間と空間の誕生であり、生と死の発見であり、快と不快の顕現である、この瞬間から、自己と世界との断絶が始まったのだ。
完全無欠の大自然と、不完全で欠落した、反自然たる人類の、終わる事の無い戦いが開始される。
自他を分別する事で、自他は乖離する。それは最早、自然では無い。
自然に、生死も、快不快も、時空も、存在せぬ。
自然に存在するのは本能のみであり、そしてそれは、純粋愛智を示して余りある。
自然から剥奪された人類の本能は、あやふやで曖昧な、表面的愛智に陥っているだけだ。
利己愛は排他と拒絶を産み、疑似的な似非の叡智に翻弄されるばかりで、一時的に覚醒はしても、すぐさま愚昧に襲われ、四苦八苦するのみ。
母性愛でさえ、人間においては利己愛の延長に過ぎず、我が子を愛する自己を演じて、本能の愛と錯覚し、酔い痴れているだけなのだ。
人自身が、自然から堕胎してしまったにも関わらず、その反自然体である人間が、我が子を自然に育てるなど、根本的に不可能なのだ。
人の母性愛は、自然の、野生の、擬似作用でしかなく、我が子のためと言いながら、自然との距離がますます広がり、愛すれば愛するほど苦しく切なくなる、負の連鎖反応を呈すばかりなのである。
自然から切り離された人間は、本能の赴くまま、ありのまま生きてはいけぬように、出発点から定められているとは、人類は何と無惨なのだろう。
植物も鉱物も動物も、すべからく、ありのまま、そのままが全体性なのであった。
ただ、自他を分別した人間だけが、異質で奇怪な反自然なのである。
永遠の徒労に終わるのが人生だとしたら、人間とは、地球上で最悪の、狂い病む生物であろう。
完全を欲すれば欲するほど、不完全へと転がり落ちるのが、人類の宿命だ。
何と不可解で悲惨な運命なのだろう。
最初から、根本から、その出発点から、人類は、錯誤の歴史を歩むほかなかった。
自然とは、胎児の、新生児の、世界との全きワンネス状態を云う。
胎児の、新生児の、宇宙的浮遊瞑想は、大自然そのものなのだった。
古代人も原始人も、おしなべて起ち合った、自己識別・自己認識の罠こそ、現在の原罪であろう。
反自然たる人類は、自然と向き合い、対峙せねば成り立たぬ存在となった。
自然から離脱した人類にとって、自然は、畏怖すべき対象とならざるを得ぬ。
これは、人類にとっての、最大のイニシエイションであり、避けては通れぬ通過儀礼なのだ。
これを看過して、眞の幸福も、絶対的平穏も無い。
人間の味わう幸福や平穏は、生死があるように、明暗があるように、相対的な事柄で、永劫の現象ではあり得ぬ。
相対性を、矛盾律を、超越してこそ、眞の幸福も絶対的平穏も、味わう事が可能となる。
私たち人類は、いかにして、眞の幸福・絶対的平穏となるのだろうか。
自然との一体化を目論む者たちの、足裏の大地と、彼等の頭上の天空に充満する、圧倒的な力。
彼等は、畏怖と合体し、本当の自然、本来の自己、すなわち、自他の無い世界に遊ぶであろう。
天地人こそ、本能者であり、純粋愛智そのものなのだ。
彼等は、意識の成り立ちから記録された、私たち自身の心身の在り様から、宇宙の本意を図る。
自己識別・自己認識に翻弄される人は、眞を愉しまず、偽を汲々と苦しむのみ。
虚勢と怒号と劣情に、骨の髄まで刻印された、悲劇の被害者たるが人類である。
時空に拘束され、磁場を失った人間たちがなすべき仕事は、時空を超越し、磁場を消す事。
人が、ほかならぬ人自身が、悪を毒を病を迷を作りあげているが、それらは全て誤謬である。
人を殺し圧迫し憎む原因は、人そのモノなのだから。
人は、敵を外に見い出し、対決しようと勇んでいるが、それらは幻影であり、自らの影に脅える愚劣を犯しているに過ぎない。
憐れで哀しい茶番を演じる、人類の分別劇は、徹底的に見苦しく、酷く殺伐としている。
心を何処にも置くなかれ。
心に縛られた肉体の牢獄者が人間なのだから。
『知らぬ』は不明ではなく、明白であり無である。
智は、人間にとって害悪以外の何物でも無い。
人類の幸福のため、人は智の追究をしてきたが、それは進めば進むほど、不安と焦燥と絶望を作り出すだけの、無窮地獄連鎖なのであった。
量子力学も天文学も哲学も宗教も、根源が誤りなのだから、いくら努力して推し進めても、無駄と徒労に終わるばかりで、自己発見以前への復帰以外に、眞の幸福は金輪際在り得ぬ。
胎児の、新生児の、大自然の、営みと振舞いと仕草を観よ!
そこには、自他を超えて歓喜する愉悦があるのみ。
生死も時空も明暗も超えて、圧倒的母性に擁かれたまま、全宇宙と一体化する幸福が、まぎれもなく実在しているのだ!
想い出せば想い出すほど、産まれてこの方、ずっとそうだった。
「個体とはそういうモノなのだなあ」
「それは宿命であり使命であろうよ」
人と世界との決定的な絶対分離は、自己識別・自己認識から始まった。
最初の、そして最大の、恐るべき悲劇である、自己識別・自己認識とは何か?
それは、産まれて間もない乳児の頃だったろうか。
全体性そのものとして躍っていた存在(=胎児から新生児)が、ある日突然に氣づく。
これとそれとは別だと。これとそれとは違うと。
それらを意識する自分が存在するのだと。
時間と空間の誕生であり、生と死の発見であり、快と不快の顕現である、この瞬間から、自己と世界との断絶が始まったのだ。
完全無欠の大自然と、不完全で欠落した、反自然たる人類の、終わる事の無い戦いが開始される。
自他を分別する事で、自他は乖離する。それは最早、自然では無い。
自然に、生死も、快不快も、時空も、存在せぬ。
自然に存在するのは本能のみであり、そしてそれは、純粋愛智を示して余りある。
自然から剥奪された人類の本能は、あやふやで曖昧な、表面的愛智に陥っているだけだ。
利己愛は排他と拒絶を産み、疑似的な似非の叡智に翻弄されるばかりで、一時的に覚醒はしても、すぐさま愚昧に襲われ、四苦八苦するのみ。
母性愛でさえ、人間においては利己愛の延長に過ぎず、我が子を愛する自己を演じて、本能の愛と錯覚し、酔い痴れているだけなのだ。
人自身が、自然から堕胎してしまったにも関わらず、その反自然体である人間が、我が子を自然に育てるなど、根本的に不可能なのだ。
人の母性愛は、自然の、野生の、擬似作用でしかなく、我が子のためと言いながら、自然との距離がますます広がり、愛すれば愛するほど苦しく切なくなる、負の連鎖反応を呈すばかりなのである。
自然から切り離された人間は、本能の赴くまま、ありのまま生きてはいけぬように、出発点から定められているとは、人類は何と無惨なのだろう。
植物も鉱物も動物も、すべからく、ありのまま、そのままが全体性なのであった。
ただ、自他を分別した人間だけが、異質で奇怪な反自然なのである。
永遠の徒労に終わるのが人生だとしたら、人間とは、地球上で最悪の、狂い病む生物であろう。
完全を欲すれば欲するほど、不完全へと転がり落ちるのが、人類の宿命だ。
何と不可解で悲惨な運命なのだろう。
最初から、根本から、その出発点から、人類は、錯誤の歴史を歩むほかなかった。
自然とは、胎児の、新生児の、世界との全きワンネス状態を云う。
胎児の、新生児の、宇宙的浮遊瞑想は、大自然そのものなのだった。
古代人も原始人も、おしなべて起ち合った、自己識別・自己認識の罠こそ、現在の原罪であろう。
反自然たる人類は、自然と向き合い、対峙せねば成り立たぬ存在となった。
自然から離脱した人類にとって、自然は、畏怖すべき対象とならざるを得ぬ。
これは、人類にとっての、最大のイニシエイションであり、避けては通れぬ通過儀礼なのだ。
これを看過して、眞の幸福も、絶対的平穏も無い。
人間の味わう幸福や平穏は、生死があるように、明暗があるように、相対的な事柄で、永劫の現象ではあり得ぬ。
相対性を、矛盾律を、超越してこそ、眞の幸福も絶対的平穏も、味わう事が可能となる。
私たち人類は、いかにして、眞の幸福・絶対的平穏となるのだろうか。
自然との一体化を目論む者たちの、足裏の大地と、彼等の頭上の天空に充満する、圧倒的な力。
彼等は、畏怖と合体し、本当の自然、本来の自己、すなわち、自他の無い世界に遊ぶであろう。
天地人こそ、本能者であり、純粋愛智そのものなのだ。
彼等は、意識の成り立ちから記録された、私たち自身の心身の在り様から、宇宙の本意を図る。
自己識別・自己認識に翻弄される人は、眞を愉しまず、偽を汲々と苦しむのみ。
虚勢と怒号と劣情に、骨の髄まで刻印された、悲劇の被害者たるが人類である。
時空に拘束され、磁場を失った人間たちがなすべき仕事は、時空を超越し、磁場を消す事。
人が、ほかならぬ人自身が、悪を毒を病を迷を作りあげているが、それらは全て誤謬である。
人を殺し圧迫し憎む原因は、人そのモノなのだから。
人は、敵を外に見い出し、対決しようと勇んでいるが、それらは幻影であり、自らの影に脅える愚劣を犯しているに過ぎない。
憐れで哀しい茶番を演じる、人類の分別劇は、徹底的に見苦しく、酷く殺伐としている。
心を何処にも置くなかれ。
心に縛られた肉体の牢獄者が人間なのだから。
『知らぬ』は不明ではなく、明白であり無である。
智は、人間にとって害悪以外の何物でも無い。
人類の幸福のため、人は智の追究をしてきたが、それは進めば進むほど、不安と焦燥と絶望を作り出すだけの、無窮地獄連鎖なのであった。
量子力学も天文学も哲学も宗教も、根源が誤りなのだから、いくら努力して推し進めても、無駄と徒労に終わるばかりで、自己発見以前への復帰以外に、眞の幸福は金輪際在り得ぬ。
胎児の、新生児の、大自然の、営みと振舞いと仕草を観よ!
そこには、自他を超えて歓喜する愉悦があるのみ。
生死も時空も明暗も超えて、圧倒的母性に擁かれたまま、全宇宙と一体化する幸福が、まぎれもなく実在しているのだ!
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by hitohiso
| 2016-01-23 20:37